この窓の向こう側

小説•エッセイ集

コスモス #01

秋が始まった事を感じるためには、家から30分ほど歩き、川沿いをしばらく散歩し、足元に目をこらす。なんとも体力と精神力がいるものだと、この街に住みなれた僕は、抗いようのない午後をそれでも満喫していた。
そんな僕の目に飛び込んで来た一輪の花を指差して僕は彼女に尋ねた。
「この花、君の母国ではなんて呼ぶの?」
透き通る空気の中、僕らはお気に入りの散歩道を歩いている。多摩川沿いをいつものように。真っ青な空に薄っすら広がる鯖雲が、秋の訪れを僕らの足元にも知らせるように桜色のコスモスが咲いていた。
「そんなの、コスモスに決まってるじゃない。」
彼女はまるで、リンゴが木から離れると地面に向かってまっすぐ吸い寄せられることが、当たり前の出来事だと主張するように、コスモスの事をコスモスと呼んだ。まるで僕の質問が幼稚園児でも答えられると言うように。
また、彼女が喋るその流暢な日本語は、日本に来てたった2年で習得したものとは思えないほど、力強く、説得力があった。
僕はその語気に少々面くらいながら言葉を続ける。
「じゃぁ、聞くが、」
と、僕が前置きした途端、彼女は僕の目をまっすぐ見て、その全てを吸収すべく好奇心に満ちた瞳をいっそう輝かせた。この好奇心が、きっと彼女の日本語力を支えているのだろう。
僕は彼女の、そのまっすぐな瞳に戸惑いながら、心して彼女に問う。
「バラはどうだい?よもや、バラまで当たり前のようにバラとは言わないだろう?ローズというならそれはそれでスジの通った回答なのかもしれないけどね。」
そう言った僕の、してやったり顔を侮蔑するような例の顔で彼女は答えた。
「チャンミ、そう、チャンミよ。」
「そら、コスモスのときは、当たり前だと思っていたことがこれで当たり前じゃないとわかったかい?」
たまにしか訪れない彼女を言い負かすチャンスを逃すまいと僕は巻くしたてた。が、それはチャンスでもなんでもなく、単なる思い上がりであったと僕は激しく後悔するのだった。
「それならコスモスの名前を訪ねる時、あなたもアキザクラと呼ぶべきだったわね。バラをローズって、コスモスをアキザクラと日本人が呼ぶ運動でもしたらどう?」
彼女の毅然とした物言いと、秋桜という日本人でも知らない人も多い単語が彼女の口から出たことに僕は暫し言葉を失った。
いつもの会話が心地よく、秋の空気とシンクロしている。こんな時間がずっと続けばいいと、心の底から祈ったのだった。

山へ

背中の重さはその時間と反比例し。

詰めれば詰めるだけ、未来は明るく。

この瞬間が一番楽しいのかもしれない。

衣食住を背に、行ったことのない道を進む。

日頃のしがらみは雲の下、携帯電話もスマートフォンも捨てて、

万点の星空の下。

 

明日から尾瀬に。

天然のプラネタリウムの下で、夢を観たい。

広島にいる正義の味方

いつからだろう。

あのお気に入りの帽子を人前でかぶれなくなってしまったのは。

子供が縁日で無駄遣いするような感覚のあの帽子。

一時、僕のアイデンティティとなったあの帽子。

隣の人と仲良くなれる、魔法の帽子。

憧れの筑紫さんが好きだと言った、あの帽子。

 

かぶれなくなった。

いつからか、かぶって人前に出れなくなった。

それでも、塞いだ心をこじ開ける正義の味方が今でも好きだ。

真っ赤な、真っ赤な正義の味方。

でも、やっぱもうかぶれないかな。

ネコのこと(2)

彼女は今、僕の傍にいる。

薄暗い部屋の中では隠そうにも隠しきれない眼光を闇に泳がせて。

さて、もう寝るよ。

そしてまどろみの中、虚ろな瞳をどこか遠い未来を見透かすように漂わせていた。

ネコのこと(1)

彼女のその、しなやかな肩は春の陽ざしを受けて、四肢の影と逆光のざわめきを私の脳裏に焼き付けた。そんな僕の印象をよそに、彼女は飽きることなく窓の外を眺めている。

その視線の先に何が見えてるのか私は知らない。窓の淵に切り取られ、行く当てもなくした澄んだ空か、それとも、文明か幻か自然現象なのか判断のつきそうにない飛行機雲か、はたまた目の前でせわしなく動き回る、儚く、生命力に満ち、菜の花に吸い寄せらた小さな命を見つめているのか。
私は、やはり彼女の小さな影とそのしなやかな肩からは伺い知る事はできないでいた。
彼女は時折、ため息をついたり、肩越しに私を見つめたり、その目の前の窓の内側と外側を行ったり来たりして楽しんでいる。声をかけると窓の外へ。そっと見惚れていると窓の内側へ。そうして長い間言葉も交わさず、意識を探るようにお互いの事を思っているうちに、午前中が過ぎてしまう事もあった。